日曜日の礼拝メッセージの記事です。



2024年4月7日 主日礼拝 「心の戸を開けなさい」 黙示3:14 ~22

 

 

 

ラオデキアの教会は豊かな地域にあり、教会も豊かさの中にいました。

 

 

 1、「あなたの行いを知っている」⒂

 

⑴イエス様は、中途半端な信仰の行いを知っている。

 

イエス様は、「神による創造の源」⒁である方なので、「あなた」の事をよく見ている、

「あなた」の事をよく知っている方です。

あなたは「冷たくもなく」(未信者の心)、「熱く(信者の心)もない」。

「あなたは生ぬるく」⒃イエス様の目には、「口から吐き出す」ような、とんでもない状態であると言うのです。

生ぬるい風呂は出ることができない状態です。生ぬるいお茶は、おいしさを失います。

生ぬるさは、自分に気づきにくいのです。

 

⑵自己満足に陥っている。「自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが」⒄

 

人は、自己満足に陥りやすい。私たちは、イエス様の心を知らなければ、自分の事だけを考えて、

視野がせまくなります。すると、自分の悟りに頼るようになってしまいます。

「心を尽くして主により頼め、自分の悟りに頼るな」(箴言3:5)

 

教会は、繁栄の中で霊的信仰的に落ちている事に気づいていないのです。

主は、「あなたは実は、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」と言います。

 

 

 

2、忠告「買いなさい」⒅

 

⑴「日で精錬された金」を買いなさい。・・・金とは信仰のこと。

 

ラオデキアの教会は、豊かさの中で純粋な信仰が薄れていきました。

この世の価値観や人間的な価値観が信仰を妨げていた。

 

⑵「白い衣」を買いなさい。・・・義の衣のこと。

 

ラオデキアの教会は「神の国とその義を求めなさい」よりも、この世の豊かさを求めて罪の中にいました。

神の「義」の価値を下げていたからです。

 

⑶「目に塗る目薬」を買いなさい。

 

ラオデキアの教会は、神からの示しや霊的な幻がいつのまにか見えなくなっていた。

「幻のない民は滅びる」

 

⑷「熱心になって悔い改めなさい」⒆

これらの信仰、義、霊性を取り戻すために、悔い改めが必要です。

 

悔い改めには、2つの側面があります。

「主よ。わたしが間違っていました。ごめんなさい」と罪の告白をすることです。

 また、今までの行き方を変えて、意識的に歩むことです。これは「買いなさい」と言われています。

買うとは、代価を払い、建て上げる努力することです。信仰は聖書を読むことから。

義は、十字架を見上げること。霊性は、聖霊の臨在によって霊性を養うことです。

 

熱心さがなければ、歩みを変えることができません。

 

 

3、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。」⒇

 

⑴「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。⒇

 

キリストは、ラオデキアの教会の内側ではなく、外に立っているのです。

ラオデキアの教会は、いつの間にか人間中心になって、主に祈ることや聞くことをせずにいて、

主を外に閉め出してしまっていたのです。

 

⑵「わたしの声を聞いて戸を開けるなら」⒇

 

キリストのノックに気づき、語りかけている声に気づくことが必要です。

そして心の扉を開くのです。イエス様は、紳士的な方です。扉を蹴破って侵入することしません。

私たちが、開くのを待っているのです。

私たちが「主よ、わたしの心の扉を開きます。お入りください。」と意識的に招きましょう。

 

⑶そうしたら「わたしは、その人のところに入って彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする」

 

「食事をする」とは、交わること、親しい関係を意味します。

 

⑷「勝利を得る者」(21)・・・「者」は単数で、勝利は個人のことです。

 

キリストは、どの教会にも語っているし、約束を与えておられるのですが、

個人的に応答する必要があるのです。応答すると祝福が来ます。

信仰の最後の部分は、個人的な応答にかかってきます。

 

最後に勝利するかどうかは、信仰の応答です。ノックを知り、声に対して応答するかどうかです。

 

⑸「戸」⒇

 

本来は、教会の戸のこと。

教会の中の誰かが主の戸を開けるなら主が入って来られ、教会が新しくされるのです。

 

リバイバルは、誰かが祈っていたからリバイバルが起こるのです。

誰かが信仰を持って主の扉を開くから、主の訪れと祝福が起こるのです。

 

 




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